製麺所の前で売られていた「玉うどん」
人並みに麺好きである。うどん、冷や麦、そうめん、蕎麦…それぞれにおいしさがあるものね。ラーメンもたまには食べるけれど、あれはどうも飽きる。麺に使われる鹹水のにおいの強さが余計、と感じるのかもしれない。
それと、ラーメンの汁の作り方って足し算なのね。私はうどんや蕎麦のつゆのこれ以上要らないという「引き算」できまるのが好き。
子どもの頃、少なくともわが家では、どれも店に食べに行くものではなかった。町内に麺を製造している工場があって、夏には、2階の開け放たれた窓から、細い棒にずらりとかけられた冷や麦が天井で回る木製の扇風機の風を受けて暖簾のように揺れていた光景が思い出される 。昭和30年代初めのことだが、「戦前は目の前の川でうどんを洗っていた」という大人たちの話からは、すでに遊泳禁止になっていたこの川が澄んでいたなどとうてい想像できなかった。環境汚染はすぐそこまできていたのだろう。数年後には阿賀野川下流域で「新潟水俣病」が発見されたのだから。
夕方ころ、工場の入り口の前を通りかかると茹でたての太めのうどんを売っていた。くるくるとまとめてひとかたまりずつ(わが家では「玉うどん」と呼んでいた)、ヘギ(低い外枠のついた長方形の木の入れ物。新潟ではうどん、蕎麦、餅、饅頭などを並べる。近ごろ「へぎ蕎麦」が東京でも人気が出てきたようだが)に並べられているのを、近くで働いていた母は、たまに仕事の帰りに買ってきていた。これは生ものなので夕飯ですぐ食べる。今どきのうどんのようなコシの強さで食べるというより、食べ始めてからだんだん麺に汁が染みてくるあたりがうどんのおいしさと思っていた気がする。
やはり買ってきたお総菜の野菜の天ぷらがつくこともあるが、どういうわけか牛蒡の天ぷらが必ずといっていいほど入っていて、牛蒡のにおいが子どもの私には好ましいとは感じられず、食べたという記憶がどうも希薄。しからば何をおかずに食べていたのか、思い出そうとしても、ほぼ却の彼方。大豆に衣をつけて、でこぼこのでんべいのようにして揚げたのは、甘くはないけど牛蒡天よりは気に入っていたような。
家族みんなが休みの日曜日のお昼に、母がよくゆでてくれたのは乾麺の冷や麦。田んぼだらけの地域だからか、蕎麦はそれほど頻繁には食べていなかった気がする。うどん、蕎麦の汁のだしとりには花鰹を大事そうに引き出しから取り出していた母だが、「かつ節では味が足りないね」と不満をもらしていたのは、けちって使っていたからだろう。もっとも子どもの私には鰹節の削りたてを使うなどということは考えも及ばず、わが家の台所にも「花鰹」があった、という記憶があるのみ。
上京してひとり暮らしを始めてから、鉋付きの鰹節削り器を買い、せっせと削ってはだし取りしていたけれど、本郷に「鰹節」の問屋さんがあるのを知って、削りたてを買うようになり、切れれば大横丁通り商店街鵜飼商店へ走って、そろそろ20年にはなるか。わが家のどっしりとした削り器は年代物の貫禄を身にまとい棚の奥深くで眠っている。