日々のたより

6月28日。南相馬市へ向かう

長野佐久平駅で日本チェルノブイリ連帯基金(JCF)事務局長、神谷さん、加藤さんと、NPOの太田さん運転の車で震災・放射能被曝という2重の災害に見舞われた福島県南相馬市へ向かう。
車は群馬、栃木と2県を通り、福島県へと入った。白河から東北東へと徐々に向きをかえ、二本松から東北自動車道を下りてさらに走り続け、出発からおよそ3時間たったかと思うころ、単調に流れていく風景がの標識に一瞬停止」の標識が。ぼうっとなりかけていた頭が急がしく回りだす。30キロ圏から外れているというのに、事故直後から、原発の北西に位置する飯舘村へと高濃度の放射能が流れたことが判明、屋内退避指示から、計画的避難区域指定と変更され、人口6000人の村は無人と化していった。
車の中の神谷さんの話では「いま、1000人くらいは帰村しているそうです」とのことだが、村を通過する10分ほどの間、人の姿はみられなかった。開いている店もなく、わずかに郵便局と信金の明かりが下ろしたブラインドの隙間から漏れていた。
いつもなら田んぼには緑の稲がうねり、長い時間をかけて自給的農業を推進し、畜産の飯舘と評価を高めた牛たちがゆったりと草を食む丘陵が広がる飯舘村は静まりかえっている。異様な静寂の中を言葉もなく通り抜け、南相馬市へと入る。

JCFは原発事故発生直後の3月20日から南相馬市を中心に、鎌田實理事長とともにいち早く医療支援活動を始めている。
午後4時ころ、南相馬市の中心部、原の町地区にある原町中央産婦人科医院に到着。高橋享平院長にお目にかかった。地震発生後の12日~14日、福島第一原発1号炉、3号機が水素爆発を起こし、原発から市の大半が30キロ圏に位置する南相馬市は自主避難区域となり、15日からバスによる避難が始まった。「わずか2日の間にスーパー、店舗、ガソリンスタンド、銀行…ありとあらゆる生活の全てがなくなり、ゴーストタウンと化してしまった」という。
産婦人科のある市内5カ所の医療機関も医師他全職員が避難させられ、高橋院長も猪苗代の知人宅へいったんは避難したが、人の生命をあずかる医師として自分の選択はこれでよかったのだろうか、と悩んだ末、2日後、原の町へ戻り、妊婦さんや患者さんたち、また切羽詰って頼ってくる人々のために、診療を再開した。
しかし、震災前市内5カ所の病院で1200床あったベッドも10床に制限され、風評被害などで薬剤他の医療物資がまったく届かなくなるなど、いのちをあずかる医療崩壊寸前に。しかし県もまったく動かず、メディアを通じて訴えるなど、考えうる限りの手を尽くし、ようやく道が開かれるようになった。ただ、6月末時点でも分 娩できる医療機関は、高橋院長の所を除いて、全部再開していない。それは、震災・原発事故前は月に100例あった出産が事故後、3カ月が過ぎても南相馬市全体で月に1例と少ないという。 再開しても病院そのものが成り立たないのだというお話に声を失ってしまう。
6月24日付けで高橋院長は、国の無策に翻弄されたこの間のことを「国民不在のこのばかばかしい国の行政…狂っている」と憤りとともに書き留めている。

病院を辞し、夜8時、地震と津波に被災された方たちの避難所に当てられた市内の小学校体育館へ。震災後、すぐにJCF一行が支援に立ち寄ったところでもある。春まだ浅く、雪も舞う冷え冷えとした避難所で身を寄せ合う人々に、医療の手をさしのべるだけでなく、少しでもあたたかい食べものをとカレー汁を供して喜んでもらったりもした。
その後少しずつ建設された仮設住宅に入ったり、原発事故後遠方の親戚・知人を頼って避難した人たちも少なくないが、今も80人ほどの人たちが避難所暮らしを続けていた。
入り口を入るとすぐに、壁のいたるところに掛けられている全国から届いた励ましの寄せ書きや横断幕などが目に入る。大きな薄型テレビが据え付けられ、扇風機が数カ所で回り、洗濯や風呂など最低限の生活機能は確保されているようだが、広いフロアを段ボールで囲っただけのプライベートスペースは着替えも丸見えだ。誰にも気兼ねせずに眠りたい…といったささやかな望みが一日も早く満たされることを願わずにはいられない。
ここに立ち寄ったもう一つの目的は、ここでいっしょに医療活動をした地元の病院の看護師さん3人が行動記録をつけながら2週間身につけてくださっていた、小型放射線積算計を計測のため取り替えさせてもらうこと。
明日は、南相馬市、飯舘村、伊達市のホットスポットの放射線測定を行う予定だ。